一人反省会

ひとまず展示を終えて、いろいろ思うことを
思いつくまままとめずに書く。


今回の作品は、今までと作り方をかえた実験的な方法だったけれども
ひとまず実行できたという点では成功だった。


「実験的」であることと「実験」は違う。
ということを酔っぱらって説教を垂れた打ち上げの時に言うべきだった。


説教とかそんなことを言える立場ではないが。すいません。反省してます。
でもたまには自分の立場を棚に上げて発言してもいいと思う。


立場をわきまえた発言は、時としてダブルスタンダードになるから。
某空幕長のことをなんとなく思い出す。


けれどもそもそもたかだか一個人の思考がそこまで一貫性を持つ方が不自然でもある。
昨日考えてた事と今日考えてた事は違うはずだから。
そして、そもそもわきまえるべき"場"は個人と切り離せるのか。
そんな"場"から切り離され、抽象化された個人は自己意識をもった個人であるだろうか?


よくわからないけれども。


よく分からないは、よく分かることよりも大事な気がする。
http://blog.intoxicate.jp/content/2008/06/steve_reich_a7c8.html
というか分かることと分からないことに経験の差はあっても優劣はない。


作り方を変えたっていうのはそのあたりの理由もあって。
今まではコンセプトが優先されてて、それを実現する作品を作ってたと思う。
だから分かる作品。


今回は大局的なコンセプトは優先しないで、細部の面白さを優先してみた。
なんとなく面白い断片を組み合わせる。
作る側としてはなんとなく分かってる。
でも多分見る側はなんとなく分からない。だと思う。



保坂和志「緩さによる自我への距離」から引用。

小説としての結構が緩くなればおもしろさは強くわかりやすいものではなく、「なんとなく」に傾いていくが、「なんとなく」というのは、読者にとって不慣れであったり、そのおもしろさが説明しにくいものであったりするという意味であって、「なんとなく」としか感じられないおもしろさであってもおもしろさがあるということは何らかのリアリティがそこにあることを意味している。小説はリアリティがあるからおもしろいのではなく、おもしろい小説には何らかのリアリティがある。この関係を間違ってはいけない。読者にしろ書き手にしろ、リアリティがどういうものであるか、本当のところ事前に何もわかっているわけではない。だからこそ小説が書かれて読まれることに価値がある。


ともかく反省すべきは酔っぱらった勢いで説教を垂れること。
酔っぱらった勢いで女の子に電話をかけるのはよし。